プロフィール

幼少時代についてお聞かせいただけますか?
幼稚園は比較的いい環境でしたね。今考えても、そこに子供を通わせている親御さんは自分の子供に対して、ちゃんと向き合っている親御さんが多かったと思いますよ。
しかし…小学校は、ある意味地獄でしたね(笑)。ほんと、鍛えられました。
校区のエリア的に、遠洋漁業の船乗りの子、終戦後の大陸からの引き揚げ組の子、組関係者の子などなど。
保護者参観なんて見に来ない親ばかりですし、先生は先生で全学連の活動などに参加して、授業が休みになることもざらでした。
唯一と言ってしまって良いのか分かりませんが、良かったこととしては、今じゃ言えないような色んな遊びが出来ましたね。
「入ってはいけません」と書かれた場所。これほど魅力的な遊び場は無いですよね?(笑)
操車場に侵入して連結器を外したり、落ちたら海の貯木場で鬼ごっこをしたり、舞鶴公園の石垣を登ったり、穀物倉庫でかくれんぼをしたり、墓石飛び遊びをしたり、製氷工場を探検したり…
かなりぶっちゃげてしまいましたけど、時効だから大丈夫ですよね(汗)?
そして、私は学級委員をやっていましたので、正確には、希望していたわけではないので「やらされていた」のですが冗談抜きで、先生が不在の時には代わりにクラスの答案の採点とかをやらされていたんですよ。偶然なのか分かりませんが、今の仕事の予行演習のようですよね(笑)。
でも、学級委員をされていたということはリーダー的な存在だったのですか?
いいえ、正直、全くそんなことはありません。
勉強は出来たので学級委員を任されてはいましたが、当時、クラスで実権を握れるかどうかは、力があるかどうか。そう、ケンカが強いかどうかで決まるのです。
しかし、先ほどの通り、メンツ的に到底かなう相手達ではありません。
なので、まともにやり合っても駄目です。懐柔策を常々色々と考えましたね。
あまりのストレスに、小学生でありながら十二指腸潰瘍になってしまいました。そして、そんな状況を見かねて、親が私を転校させることになったのです。
話で伺いするだけでも激動の時代だったことが想像されます。転校後はどうでしたか?
前の学校がそういう状況だったものですから、環境は本当に良くなりましたね。ただ、そこそこ勉強はできるつもりだったのですが、授業についていくのに必死でした。分からないことが多くて大変でしたよ。まぁ、それでも前の環境のことを考えれば何も言うことはありませんでした。勉強は巻き返せばいいだけのことですしね。
実際、算数で旅人算、つるかめ算の類が当時6年生の内容にありましたが、全くわかりませんでした。
前の学校で満足に授業が行われてなかったのですから当たり前ですよね。
「中学では数学と言われるからもっと難しくなるんだろうなぁ。もうダメやなぁ。」と絶望感一杯でしたよ。
でも数学になったらXを使う方程式で解けば良いので助かりました。

話は変わって、趣味・趣向のことをお伺いしたいのですが?
幼少のころからずっとSLに夢中でした。趣味というよりも、よく生で見る機会があり慣れ親しんでいましたから、気付いたらSLに詳しくなり、大好きになっていました。
そしてそれがエスカレートして、博多駅で見るだけでは物足りなくなり、当時、あちこちからSLが集まる拠点になっていた鳥栖駅まで足を運んで色んな車両を眺めました。
加えて、今度は自分が目にしたSLをちゃんと記録しておきたいという思いが強くなり、カメラという分野にも手を出しました。
SLに始まり、その流れでカメラにも繋がっていったわけですね?

はい、そういうことです。
いざカメラを手にすると、色んな車両を見たり撮ったりということからさらに進んで、今度は、色んな土地で走るSLの姿、つまりロケーションも含めてのSL撮影に発展していきました。時刻表や駅員さんから情報を集めて、いつどこに行けばどのSLが見られるかを調べて、現地まで行って撮影する。そんなことを小学高学年のころには既にやっていましたね。
当時、カメラはフィルムでマニュアル式だったかと思いますが、撮影技術はどのように習得されたのですか?
父がカメラ好きだったのですが、全くと言っていいほど教えてくれませんでした。そういう父ではなかったのです。
なので、絞りやシャッタースピードなど、全て自分で考え、試行錯誤をしながら色々と撮影しました。そしてそうしていくうちに、それらの用語の意味が少しずつ分かってきて、的確な設定ができるようになっていきました。
今思えば、「あのときのあのシーン、タイムスリップできたならバッチリ撮れるのになぁ。」と振り返ること多々ですね(笑)。

次に、今現在のタイムリーなものの1つとして、山笠についてお聞かせ願えますか?
はい。今でこそ、居住地に限らず広いエリアから参加できる山笠ですが、当時はそうはいきませんでした。なので、当時住んでいた場所の都合上、出たいけれど出られない。憧れはあるけど見る側としてしか参加できない。私にとって山笠というのは、そういう存在でした。見に行っても悔しいだけなので、見に行くことはしませんでしたね。
山笠を中心に博多の色々な文化が学べる「博多っ子純情」は読んでいましたけど(笑)。
実際に参加できるようになったのは私が30代後半になったころからです。
いざ参加されてからは、どうですか?
縁あって土居流で参加させていただいて以降、土居流一筋です。
といっても、土居流の地元住民ではないので、大役が回ってくるようなことはあり得ない。
でも、毎日の流舁で舁山を山笠据えから出発させる「舁き出し」というのが行なわれるのですが、この時の舁き手を決める居住地など関係なく自由競争です。所謂「棒組み」とか「棒競り」と言われるものですが、「これだ!」と思いました。とにかく舁き出しをとる、それを自分の目標として必死でやりました。すると、あろうことか2年目で櫛田入りのメンバー26人のうちの一人に抜擢されたんです。ホント、嬉しくてたまりませんでしたね。
ただ、それと同時に、「なぜ2年目の自分が選ばれたのだろう?」という疑問もありましたが、毎年参加していく中で、なんとなく答えを見出すことができました。それは、経験を積んでいくと、周りがよく見えてきて、誰がどう動いているか、誰が一生懸命取り組んでいるかが手に取るように分かるようになるということ。つまり、舁き出しに精を出している自分を、上の方々はしっかり見てくれていたのだろうなぁと、今、振り返っています。
最後に、座右の銘があれば教えていただけませんか?
「人生万事塞翁が馬(じんせいばんじさいおうがうま)」です。
「人の幸不幸なんていうのは、時間が経ってみなければわからないもの。」といったような意味の言葉です。
目の前の失敗や、今の自分の未熟さにくよくよせず、諦めずに努力することで、いつかそれが糧となり、花開くことが必ずくるはず。また逆に、成功したからといって浮かれていると、いつか足元すくわれてしまう。今、目の前に起きている出来事が幸なのか不幸なのかは、後になってみないと誰にも分からない!本当にそう思います。このことは、自己の経験から身を持って学んできたことですし、これからもずっと、生徒達にも伝え続けたいことですね。
実は、昔、司法試験に落ちてしまったのがきっかけで、この家庭教師派遣業界に身を投じることになったのですが、今思えば、このことが無ければ、我が子のような沢山の生徒との出会いはあり得ませんでした。これもまた、人生万事塞翁が馬ですね(笑)。

カーネギー学園 代表
安田 聖一郎

カーネギー学園 代表 安田 聖一郎

代表略歴

1957年12月
福岡市にて生まれる

1964年3月
西南学院付属舞鶴幼稚園卒

1970年3月
福岡市立原小学校卒業

1973年3月
福岡市立城南中学校卒業

1976年3月
福岡県立修猷館高校卒業

1984年3月
九州大学法学部卒業

1983年7月~1988年3月
東区の個人塾にて非常勤講師
司法試験挑戦/個人契約の家庭教師を多数担当

1988年7月~1988年12月
北海道十勝清水町の共同牧場にて牧夫

1989年1月~1992年12月
熊本の個人塾にて専任講師

1993年1月~
司法試験再挑戦

1995年7月
クラーク家庭教師学院に登録 家庭教師再開

1998年3月
クラーク家庭教師学院を引き継ぎ、カーネギー学院と改称、代表となる。
現在プロの家庭教師であり代表でもある。
福岡 北九州 久留米ほか福岡県で家庭教師を派遣。